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次郎が正子と食べた親子丼。通常はコース料理の最後に小ぶりの器で供する。「お客が蓋を開けた時点で完成させる」という、絶妙な火加減に美味しさの秘密がある。写真の器は両方とも魯山人の作。


当代随一の京料理の店として名が高いのが、京都・嵐山の『吉兆』本店。ここは次郎の妻、正子に縁のある店で、次郎が足を運んだのは、たった一度きりだ。
吉兆の代表取締役・徳岡孝ニさん(67歳)は、日本文化に造詣が深かった白州正子と、共通の趣味である器を介して親交があった。
「正子先生が店に寄られるときは、いつも台所から入って来はって、すぐ横の仏間に上がられる。そこでご飯を食べるのが、お好きやったんですわ」
ただ、この店には、人間。白州次郎を語る上では外せない、貴重な挿話がある。
昭和60年11月、その日は次郎も正子と一緒に台所から仏間に上がった。そこで珍しく、次郎が子供時分の思い出を突然語り始めたという。それが、次郎と吉兆の不思議な縁につながるものだった。

桜や紅葉の名所でもある京都の嵐山に、昭和23年開店した。広大な庭園と数奇屋造りの風雅な佇まいを持つ、京料理の名店だ。


次郎が語ったのは、神戸の生家の近所にあった『中現長(ながげんちょう)』という鰻屋の女将との思い出話だった。

その女将は、幼い次郎を「坊ん(ぼん)」と呼び、美味しい鰻を届けてくれたこと。病気をしたとき、何日も傍で看病してくれたこと。彼女は湯木やゑさんといい、男勝りの性格で、綺麗な人だったこと、等である。さらに、次郎はこう続けた。
<その女将さんのおかげで、いまの私がある。でも、どうしてだろう、今になって、ふと思い出しました。何だか不思議だね>
正子も初めて聞く話だった。
そんな次郎の話に、驚いたのは徳岡さんのほうだった。
「その女将はんは、この吉兆の先代の実のお母はんです。90いくつまで元気で、この嵐山においやしたんどっせ。いやあ、ほんまに不思議なご縁どすなあ」
目の前の仏壇に、その女将の位牌が祀られていると知った次郎は、線香をたむけて手を合わせた。そして、涙を流しながら位牌を抱き、いつまでも離さなかったという。
次郎83歳。正子と最後の京都旅行を楽しんだ折のことだ。


ところで、京都の東山に、次郎が定宿にしていた旅館があった。細部の造作まで凝りに凝った、徳岡さんの表現を借りれば、「お公家さん好み」の宿である。
次郎がきわめて懇意にしていたその旅館の先代女将が亡くなってからは、彼が事実上の後見役だったという。そこは次郎にとって、京都の別邸のようにもなっていた。
吉兆を訪れた日、その宿の話に触れて、次郎は徳岡さんに、こんな提案をしたらしい。
<あの旅館を料理屋にしてもいい。君にまかせるから、どうだ>
しかし、この話は結果的には立ち消えになった。京都旅行から戻った次郎は、それからわずか10日ほど後に体調を崩し、にわかに帰らぬ人になったのである。


次郎は、この仏間(一般客は立ち入り不可)で、吉兆特製の親子丼を賞味。その折、幼少期の思い出の中の女将が、先代の母と知り涙した。

2代目の徳岡孝ニさん(67歳)。「次郎先生に、お目にかかったんは1度きりですけど、ほんまに劇的な出会いで感激しました」
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